韓国のフェミニズムジャーナル「イルダ」に連載された小誌編集委員・杉田俊介インタビューの日本語訳を2回に分けて掲載します。翻訳掲載にあたって元記事の構成を多少修正し、内容を補足しました。(翻訳:櫻井信栄、監修:趙慶喜)
*元記事URL
弱さをキーワードに男性性を分析する
批評家・杉田俊介インタビュー(上)
趙慶喜
▲杉田俊介氏。インタビュー後ソウルのある食堂で(撮影:趙慶喜)
批評家・杉田俊介は日本でどのような存在なのか。彼の代表作を羅列するだけではうまく伝わらないかもしれない。『無能力批評:労働と生存のエチカ』(2008)、『宮崎駿論:神々と子どもたちの物語』(2014)、『長渕剛論』(2014)、『戦争と虚構』(2017)、『ドラえもん論:ラディカルな「弱さ」の思想』(2020)、『ジャパニメーションの成熟と喪失』(2021)、『マジョリティ男性にとってまっとうさとは何か:MeTooに加われない男たち』(2021)、『橋川文三とその浪曼』(2022)、『男がつらい! 資本主義社会の「弱者男性論」』(2022)...
労働運動、政治思想、障害、フェミニズム、芸能、アニメーションなど、彼の執筆領域は一見しても非常に広い。これらのテーマを貫く視座は日本の能力主義と自己責任論に対する強い批判意識である。ここ数年は同僚たちと共に雑誌『対抗言論:反ヘイトのための交差路』の刊行に奔走した。複合差別の現実の中で傍観するマジョリティが内在的に変わるための指針書のような雑誌だ。
私も筆者として雑誌に参加するなかで、彼の批評の原動力やテーマの内的な繋がり、そして個人史に興味を持つようになった。ちょうど学会発表のために韓国を初めて訪れた杉田氏と会ってインタビューを行い、その後オンラインでも対話を続けた。同じ1970年代生まれということ以外はあまり共通点がないが、とても楽しく学びの多い時間であった。
フリーター×障害者問題の交差路で
杉田俊介氏を初めて知ったのは彼のデビュー作『フリーターにとって「自由」とは何か』(2005)を通じてだった。「フリーター」とは「フリーアルバイター」という新造語を略した言葉で、正規職ではないアルバイトで生計を立てる青年たちを指す言葉だ。1990年代以後日本で「夢をあきらめない青年たち」というロマン化された言説とともに非正規職労働者たちが急増した。
自発的選択と見られたこの就業形態が、青年たちを簡便に使える労働力として再編するネオリベ的企ての産物だったという問題意識が出てきたのは長期的な景気沈滞期に入った後だった。当時、青年世代の対抗的でオルタナティブ的な議論の形成過程で杉田俊介の文章は一際目についた。冷たい現実分析ではない、フリーター当事者による当事者たちに向けた実存的で躍動感あふれる言葉だった。
趙:2007年に韓国の大学で日本のテキストを読む授業を初めてやったのですが、その時読んだのが杉田さんの本『フリーターにとって「自由」とは何か』でした。臨場感あふれる内容が気に入って選んだのですが、韓国の大学生たちと日本のフリーター問題を日本語で読むのは簡単ではありませんでした。苦労した記憶があります。
杉田:僕はちょっと言葉が「壊れている」ので……。変な本なんです、あれ。2000年代後半はいわゆるフリーター運動とかロスジェネ論壇といわれるような、格差や貧困問題に対して当事者が立ち上がって社会責任を主張し始めた時期でした。当時は正規雇用を選ばなかった当事者たちが、非正規であることの不幸とか貧困は全て自分のせいだ、と自分を責めることが当たり前とされていました。そういった自己責任の呪いを解いて、「社会責任」を突きつけていく、そうしたムーブメントでした。仲間たちと「フリーターズフリー」という協同組合に似たようなシステムをつくって…
趙:雑誌がありましたよね、『フリーターズフリー』。
杉田:はい。数号しか出なかったのですが、一緒にやってたメンバーたち――大阪で長い間野宿者支援をしている生田武志さん、フェミニストの栗田隆子さん、それから文芸評論家の大澤信亮君――、それぞれ異なる立場から労働問題や貧困問題を考えようとするメンバーたちとの活動があり、それで『フリーターにとって「自由」とは何か』が出来上がりました。
趙:2008年頃、作家の雨宮処凛さんが韓国の青年貧困問題を取材しに来て、韓国の「ペクス連帯(ニート連帯)」というグループと懇談会を行ったことがありました。私は通訳だったのですが、日本側の内容が深刻なのに比べて韓国はもっと何というか気楽な雰囲気だったのを覚えてます。「ワールドカップを見たくて職場を辞めた」とか、「金がなくても先輩がご飯をおごってくれる」とか言っていて、日本の雰囲気と相当なギャップがありましたね。実際に人間関係のセーフティネットという面から見ると、日本の青年たちの現実がはるかに不安で悲壮的に見えました。
杉田:確かに割と暗かったかもしれないですね。やっぱり社会的な手助けはなかなかないですから、そこが残酷な部分ですね。当時、自分の中には三つの軸があって、一つは労働・格差の問題。二つ目が障害者介助の問題でした。20代後半から30代後半まで川崎のNPO法人で障害者介助の仕事をしていたんですね。日本では1970年代から障害者解放運動が割とラディカルに展開されて、「青い芝の会」という脳性麻痺者が中心となった活動がありますが、私もその影響を多く受けました。
彼らは自分の社会の側の差別だけではなく、自分たちの欲望をも規定する優生思想を問題視しました。彼らは「健全者文明」という言い方をしたんですけど、この世界はそもそも健全者中心に作られていて、障害者を排除することで成り立っている。もうそれは文化とか国家のレベルをこえて、文明のレベルで健全者を自明視してこの世界が作られている、というかなりラディカルな批判でした。その彼らのキーワードの一つが「内なる優生思想」です。つまり、差別や優生思想を批判する障害者たちもまた、たとえば障害者が健常者のノーマルな美しさを美意識の基準にして、鏡に映る自分の体を醜いと感じてしまうとか、男性障害者が異性を好きになる場合も同じ障害をもった女性ではなく、世の中が綺麗と見なして健常者の若い女性に性的欲求を持つとか、それがまさに「内なる優生思想」そのものじゃないか、って問い直そうとしたんですね。
ロスジェネ運動に関わってた時も、そうした一九七〇年前後の障害者運動のラディカリズムを参照した面があります。自己責任、つまり賃金が少なくて生活が苦しいのは自分たちのせいだっていう強烈な思い込みがあって、それにみんな苦しめられていて、自死する人たちもいる。ネオリベラリズム的なものを内面化してひたすら自分を責める、罪悪感を抱くという状態からどうやって抜け出すのか。それを社会の構造的な問題であると同時に、自分たちの欲望の問題としても問い直そうとした。僕の場合はそういうスタンスでしたね。
能力主義とエイブリズム批判、ジェンダー問題は?
自分の中に当時三つの軸があったと言いましたが、三つ目として、1970年代のウーマンリブの著作からも多くの影響を受けました。日本には田中美津さんというウーマンリブの代表格がいますが、彼女は「女らしさ」の性規範を批判しながらも、たとえば好きな男の人が目の前に来ると、それまであぐらをかいて男性糾弾の集会をしていたのに、ぱっと膝を閉じて、女性らしく振る舞ってしまう。そうした自己矛盾を見つめたんですね。そうした「女らしさ」の呪縛を強いてくるこの社会ってなんだろうと、その矛盾を矛盾のまま消さずに問い直そうとした。倫理的な正しさによってそうした矛盾をなかったことにするんじゃなくて、矛盾している自分の欲望とそれを強いる社会を見つめようとした。そういう意味でのウーマンリブの、リブ(解放)というスタンスから影響を受けましたね。
当時の日本で言われたフリーターの問題も、そもそも自分たちにとって自由とは何だろうか、ということを考えることから始めようと。働かない人も生きていいじゃないかって一方では思うけれど、他方ではやっぱり働かざる者食うべからずなんじゃないか、と感じてしまう。そうした矛盾の内側から自由の問題を粘り強く考えていく。その先に普遍的な自由や社会正義があるのではないかと。その辺りは今でも変わっていないですね。
趙:自己矛盾を正しい言葉で消さずに、その矛盾の内側から考えるっていうのは全く共感します。1970〜1980年代のラディカルな障害者運動はウーマンリブ、フェミニズム運動とも熾烈に論争し対立しますよね。女性たちの自己決定権をめぐってですね。
杉田:はい、女性たちの妊娠中断の自己決定がある面では障害者抹殺の思想と結びつくのではないか、という疑問をつきつけて、色々深刻な論争がありましたね。リブの女性たちもそこを引き受けて、それならば、中絶という子殺しとともにある女性の自由って何なんだろう、つまり加害者としての自分を肯定するって何だろう、と考えた。それは今現在もまだ未解決の問題として続いていると思います。今でいえば能力主義(meritocracy)やエイブリズム(ableism)と呼ばれる問題を当時から議論してきたわけです。
とはいえ他方では、「青い芝」の議論が男性障害者たちにかなり偏っていて、脳性麻痺の女性たちの存在が排除されていました。たとえば「CP女の会」という集団が結成されたりしています。結局障害者女性をのけ者にしたり、健常者の若い女性にケアさせたりしているんではないか、そういう自分たちの問題を十分に考えてないんじゃないかって。それこそ交差性という言葉がなかった時代から、非常に深い次元でそうした問題を自分事として引き受けて葛藤して、答えがないままに問い自体を試行錯誤していこうとした。そういうウーマンリブと障害者運動が交差した経験が、僕の場合は当時のフリーター運動の大きな参照点の一つになっていました。もちろんそれを僕が自分事としてどこまで考えられたかというと、難しいところですね。そこは積み残しの問題として、むしろ今後考えていくべきことかもしれない。
恋人がいないことの苦しさ、向き合えなかった脆弱さ
杉田:ところがですね、先ほどの『フリーターにとって「自由」とは何か』やその次の本『無能力批評』を読み返してみると、障害についての話は出てくるんですよ。障害者ケアの仕事をしながら労働問題を考えていたということもあり、当時からそれなりに交差性の問題を考えたような気がします。ところが、今から思うと、そこにはあまりジェンダーの話が出てこないんですよ。それは一緒に運動してた栗田さんなどからも批判された点ですが。
とはいえ、自分がジェンダー問題に関心がなかったのかと言うとそうではありません。それなりに勉強もしたし、意識もありました。というか、かなり強く意識していた。日本では当時からネット論壇を中心に「非モテ」という言葉があって、インターネットのジャーゴンみたいな言葉ではあるんだけど、近年の「弱者男性論」につながるような問いは自分の中にすごくありました。フリーターとしてコンビニや日雇い労働で働いていた20代半ば頃はたぶん人生の中で一番苦しく絶望していた時期だったんですけど、その中でも特に、異性の恋人がいないということ――私はベタベタなシスヘテロのマジョリティ男性ですが――一番苦しかった。お金がないことや職業的なスキルがないこと、将来設計ができないこと、そういう問題にもっと苦しんで不安になってもいいはずなのに、恋愛対象がいなくて誰からも愛されないことが一番つらかったんですよね。
なのに、当時の自分が一番苦しんでいたことはずのことが、最初の本にはほぼ書かれてないんですよ。逆に言うとそれだけ性の問題は抑圧が深かった。労働問題と性の問題がクロスしなかった。そこをスルーしてしまったのはなんでなのか、という問いが結構後々まで残ったんです。女性差別や性的マイノリティ差別の問題を他人事としてではなく自分事としてちゃんと考えようと思い始めたのは、恥ずかしいことですけれども、結構遅かったんですね。それは自分にとって結構痛いことで…
趙:それはわざと避けたのではなく、きちんと向き合えなかったということですよね...
杉田:はい、自覚できてなかったんですよ。向き合うのが怖かったのかな。物書きとしては、その場その場で切実と思われることを書いてきたつもりなんですけど、一番深刻に苦しんでいた時にそれ(性や欲望のこと)について書けなかったな、っていう気持ちはやっぱりあるんです。自分の痛みや欲望を抑圧して封印していたと。最初にその辺のことをある程度の分量で書けたのは、ようやく2016年の『非モテの品格』という本です。本当はサブタイトルの「男にとって弱さとは何か」をメインタイトルにしたかったのですが、それじゃ売れないよって言われて(笑)。
しかしこれは個人的な問題ではすまないのかもしれない。男たちが自分のジェンダーや性の問題に対峙するまでにかなり時間がかかるということは、それこそ、フェミニズムに対するバックラッシュや、女性に対してミソジニー的な攻撃を仕掛けることと関係してるんじゃないかと。正直に言えば、僕も油断すると、追い詰められると、今後もミソジニー的な方向に走ってしまうかもしれない。資質的に。むしろそうならないために、僕自身が闇落ちしないように努力しなければならない。そうした危機意識があって、最近は男性学――僕はメンズリブという言葉の方が好きなのですが――的な文章を集中的に書いている、という感じです。
ひきこもりのアイデンティティとサブカルチャー批評
趙:導入から本質的な話が出てきましたね。ところで、これまで書かれた本を見るとサブカルや大衆文化についてが一番多いんですよね。
杉田:はい。なんでかなと考えると、初期には労働問題に関する文章を書いて、障害者のヘルパーの仕事をしてたので、物を書くことと現場で働くことが両輪になっていたんですよ。割とそれが噛み合っていたというか。でもフリーター運動もだんだん収束していく中で内部分裂みたいな論争があって、そして介護の仕事も少しバーンアウト気味というか、ちょっと燃え尽きちゃったんですよ。両輪でやってたことがだんだんできなくなってきて、2冊目の本『無能力批評』を二〇〇八年に出してから、次の『宮崎駿論』という本を出せるまでに6年くらい空白があるんです。うまく書けなくなってしまって、正直もうこのまま本が出せないのかなって思うくらいで。じわじわとこう衰弱していくというか...
社会評論的なものはだんだん書けなくなってきた中で、サブカルチャーについて書いてみたら、なぜか書けたんです。僕はもともと、ひきこもり的な人間で、またオタク気質が強いので、好きなものについてなら書けた。それで再び書けるようになって、本を出す数も多くなっていきましたね。
ただ、日本にはサブカル批評家たちもたくさんいますけれど、僕が書くと割と政治、社会、労働問題が多めに入ってきます。日本のオタク批評には長らくそれを好まない...いや、かなり嫌う傾向があったんですよね。作品の中に社会問題を読み込むことは、嫌われるし避けられる。文化左翼は嫌われる。カルチュラル・スタディーズも矮小化されて入ってきたという印象があります。文化批評とオタク批評は違うんだ、みたいな。
趙:質問の順序が前後しますが、出身はどちらですか?
杉田:神奈川県川崎出身です。引っ越しは何回かしましたが、川崎市から出たことがありません。海外にもほぼ出たことがないです。さっきも言ったように引きこもり体質ですから(笑)。あまり移動していません。
趙:生まれ育った場所への愛着っていうことですか。
杉田:いや、べつに愛着もないんです。郷土愛、パトリも全然ない。めんどくさがりで人見知りなんです。たとえば、あなたのアイデンティティは何かと聞かれたら、オタクでもなくって、日本的な「引きこもり」ですね。根本には、空虚なニヒリズムがあります。全てに対する不信感がありますね、正直にいえば。引きこもりのメンタリティって、実存主義の現代版のようなところがある。自分の存在の根っこをどこにも持てない。足元にはひたすら穴が空いてる。かつての20世紀の実存主義もそういう無根拠性から一気に政治的なコミットメントに飛んだり、決断主義的に民族意識に目覚めちゃったりしたわけです、現在だとそれはヘイトへの決断かもしれないですね。女性に対するヘイト、あるいは在日コリアンや韓国、中国に対するヘイトが、実存的に穴が開いた人たちのニヒリズム的な攻撃性を吸収する手っ取り早い力になってしまう。
川崎の南部地域にはコリアンタウンがあったり、工場労働者とかホームレスとか、精神障害者たちの作業場も多いんですね。ダークなイメージが強いんですが、北部に行くと高級住宅街もあって東京にアイデンティティが近いようなハイソな空間も広がっていて。よく川崎市の「南北問題」と言われるんですが、正確には「南中北問題」という感じなんですね、僕の感覚では。僕が住んでいる「中部」は地域的に南北のどちらでもなく、何というかのっぺりとした抽象的な郊外が広がっているような場所なんですよ。郷土愛とかが芽生えようのない空間で。抽象的な人間になりがちというか。田舎だと引きこもりようがないというか、行事やお祭りとかで引っ張り出されて、人間関係を必ず求められるじゃないですか。そういうわけでもなく、社会や共同体に参加せずにいることが許された。そういう場所で育ったことも関係しているのかもしれません。
趙:大学では文学を専攻されましたよね。研究の方に行こうとは思われなかった? 障害者介護のほうに進んだ契機はどのようなものでしたか。
杉田:これは本当にね、そりが合わなかったんですよね。修士課程までは行きましたが、アカデミズムに属する気持ちもあんまりなくて、ほとんどモラトリアムというか、できれば社会に出たくなかった。それ以上に積極的な理由はなくて。当時の大学院は何というか吹き溜まりみたいになっていた。もともと柄谷行人とか吉本隆明の影響を受けていましたが、当時の環境では現代批評はけっこう嫌われていて、馬鹿にされるような空気もあった。
親にパラサイトしながらアルバイト生活をしてたんですが、ある事情で大きな借金ができて、働いて金を稼がなきゃいけなくなった。当時は日本では介護保険が始まった時期で、介護の仕事は食いっぱぐれがないし、うなぎのぼりの産業だって言われていた。元手がなくてもヘルパー2級の資格なら取れる、という割と消極的な理由でケアの仕事を始めた。高齢者介護ではなく障害者介護の方に行ったんですが、それも本当にたまたまでした。そこから10年ぐらいは、結構ハードなケアワークの仕事をしてましたね。
日本だと「重症心身障害者」っていうカテゴリーがあるんですが、僕が働いていたNPО法人では、知的障害と身体障害が最重度とされるような人たちのサポートを中心としていました。今は少し違うと思うんですが、当時はまだ結構、誰かを助けたいという使命感を持ってケアの仕事をする人も結構いて、でもそういう理想の高い人って結構辞めちゃう人が多かった。やっぱり現実はすごくドロドロしてるし、人間の業のようなものに向き合うことが多いですから。理想を持って入ってくる人の方がケアワークの現場では心が折れやすいって言われてて。僕みたいにたまたま働き始めた人間の方が、やってみたら割とハマって長続きしたりする、というケースもあるみたいですね。
男性ジェンダートラブル… 育児ノイローゼを病む
趙:その後は施設の仕事を辞めて物書きを主な生業とすることになりましたが...
杉田:30代で結婚して子供が生まれたんですけど、連れ合いが同じ福祉の仕事をしていて、共働きを望んだ。出産して割と早く、パートナーは再び正規職として仕事に出て、僕は正規職員から非正規職になって、家で文章を書きながら育児を担当していた時期がありました。少しずつ批評の仕事も増えていたので。
僕は家事とか本当に苦手ではあるんですが、保育園の送り迎えとか病院関連とか、日常的な責任の所在は僕の方にあるという状態でした。あの、うちの場合、子どもが少し特殊で、超未熟児として生まれて、発熱で救急車で運ばれたりとか、色々アレルギーがあったりとか、ちょっと大変な時期があったんです。それで、僕はいわゆる育児ノイローゼになったんですよ。子どもから離れるのが不安になって、睡眠も取れなくて、何をしてても不安でしょうがなくて。
介護の仕事をしてる時は結構偉そうなこと言ってたわけですよ。障害当事者や家族になんかアドバイスをしたりとか。仕事では他人にはそんなこと言ってたのに、自分がいざ育児の立場になったら、もうほんとに弱い。全然ダメでしたね。あっというまにメンタルをやられちゃって。睡眠不足でへとへとなのに、子どもの体調が悪くなるのが不安で、他人を信頼して任せられないんですよ。バランスが取れてなかったんでしょうね。障害者の家族にアドバイスしてた自分がほんとに恥ずかしくなりました。偉そうなこと言ってたのに、自分事になった瞬間にこんなに人間はもろいんだと。
趙:外でも家庭でもケアを担当されたんですね。特別な経験だと思います。この時期が先ほど話した文章が書けなくなったという時期、あるいは男性性の問題ときちんと対面する過程と重なるように思いますが。男性が経験するジェンダートラブルのような側面があったのでしょうか。最近ケアリング・マスキュリティみたいな言葉もありますが、いま出てきた過剰な責任感とか没入してしまうこと、他人に任せられないといったことが、杉田さんの男性性の問題とどのような関連があったのか気になります。
杉田:そうですね。たとえば先ほども言ったフリーター活動と障害者介助の両輪を考えた時に、やはり「フリーターズフリー」の活動は男性中心的なもので、四人中一人だけの女性(栗田さん)に過度な負担を強いてしまった、そのことに対する自意識が足りてなかった、という点は絶対あります。それが内部分裂や解散の理由の一つになった。それが一つのトラウマになって、だいぶ遅れてですけども、男性問題やメンズリブを考えるきっかけになったのは間違いないです。
逆にケアワークの現場を見ると、基本的には女性中心の世界で、制度の変化があって男性ケア労働者が急速に流れ込んでいった時期でした。それによって現場ではちょっとした軋轢とか温度差があった。パート的な働き方をしている女性も多くて、男性労働者のほうが生活の苦しさなどを分かってもらえない、みたいなねじれが生じてしまって。
趙:なるほど…ちょっと引き裂かれてしまう。
杉田:ええ。だからケアリング・マスキュリニティをきちんと形成できなかった。男性性の混乱を主体的に論じられなかったんですね。そうした事情も、バーンアウトとか育児ノイローゼに絡んでいるのかなと。心が折れてしまって、なかなか物が書けなくなったのかもしれない。
正直いって、ケア労働者としても、やっぱり「男らしく」能力主義的に振る舞おうとする傾向が自分にもあったと思います。ケア関連の支援者の能力主義って、ちょっと歪んだ部分があって、たとえば障害者や保護者の話をふんふんと傾聴しつつ実はコントロールしていく、みたいな。傾聴しながら実は優位に立とうとする。そのことに気づいたのが、病弱な子供のケアに失敗して、僕自身が育児ノイローゼでメンタルを一時的に病んでしまったことだった。当時は気づかなかったけど、「ケアを実践している自分」に対する思いあがりがちょっとあったのかな。その頃は、男性のケアラーって、ちょっと貴重という雰囲気があったんですね。俺はケアしてる男性だぜ、みたいなマウンティング意識がなかったとは言えません。
そうした思い上がりが一度打ち砕かれたわけです。ジェンダートラブルという言葉にならって、私は勝手にディスアビリティトラブルと呼んでいます。自分の決定的な無能さ、無力さに気づかされて、慌てふためくようなトラブルの経験。ケアしているつもりが逆に自分のほうがケアされている、支えられるということに気づかされたり。ケア的男性であったつもりが、さっぱり大したことなかったっていう(笑)。だから後から考えると、育児ノイローゼやバーンアウトもふくめて、自分の中にしぶとくある「男らしさ」の神話や能力主義をアンラーンする、つまり学び捨てる、学びほぐす過程...だったような気がします。
趙:はい、はい、なるほど。赤ちゃんは全面的なケアを必要とする存在ですし、精神的なコントロールが不可能ですからね。あの、他の人に任せることができないということも、もともとあるニヒリズムとか不信感が過剰な責任感につながっている感じですね。あるいは、介護労働の経験者として「自分ができないはずがない」という...
杉田:ああ、そうですね。ここで心が折れたら負けだとか、出来ないと認めたら父親として終わりだとか思ってたんじゃないですかね(笑)。幸いにも連れ合いが私より冷静で、私がもはや正常ではないことに気づいて、子供と距離を撮ったほうがいいと言ってくれた。近所に銭湯があって、湯船につかって子供から初めて距離が取れた。銭湯って特殊な空間というか、日常と非日常の中間くらいの場所なんだなと。自分がどれだけガチガチにケアや育児関係の中に縛られていたか、というのがわかって。それで少しずつこう、子どもの体調管理を他の人にも任せたりとか、なるべく自分の弱さをシェアしようと思った。自分の弱さは自分では抱えきれないなと。他人の力を借りる勇気、他人を信用する勇気を持たないとダメだと。
自己嫌悪をこじらせない技術としてのケア
趙:個人史を聞きながら点が線につながった感じです。主題の内的なつながりをある程度理解することができました。多くの文章を書かれましたが、ああ自分は書けるって思った瞬間てありますか。書くうえでの原動力みたいなことでも。
杉田:うーん、自分は批評文を書くぐらいしか存在価値がないぞ、みたいな強迫観念は今もあるかもしれません。でも、いまだに自分の原稿や本って全然好きじゃない。どっちかというと自己嫌悪の方が強い。書くのが楽しいという感覚はほぼなくて、でもその自己嫌悪が執筆のエンジンになってるところがあります。今のままじゃダメだ、みたいな。この自己嫌悪はまさに能力主義の一形態であり、内なる優生思想そのものだと時々感じます。
趙:自己嫌悪っていった時、社会的に認められることでは満たされない自我の問題なのでしょうか... どうなんでしょう。自分はもっとすごいんだという一種の自己愛と紙一重なところもあるのかなと。
杉田:悪い意味での自己愛かもしれないですね。自分はもっと才能があるはずだ、という幼稚なナルシシズムの裏返しなのでしょう。そうは思うものの、やっぱりどうにもならない。引きこもり的な人間によくある、世の中で何ものでもないという感覚、虚無感から逃れられない。たとえば、自分を褒めたり肯定してくれたりする人間が最も信用ならない、という感じがあったりしますね。僕ごときを褒める人間は僕のことを全然わかっていないと。
さらに言うと、男性のなかの自己否定の問題、内なる男嫌いの問題があると思います。これは哲学者の森岡正博さんも言ってきたことですが、内なるミサンドリーの問題がある。それが大前提としてある。もちろん恋愛のコミュニケーションに失敗したとか、男性同士のホモソーシャルな圧力とか、母親との愛着関係の屈折とか... いろんな要因が混じり合っているとは思います。男性たちの内なるミサンドリーの問題は、あまり理解されないというか。
そうした内なるミサンドリーをいかに「こじらせない」でいられるか。それが重要な気がします。自己嫌悪すること自体が悪いとは思わないんですね。自分の中に男性嫌悪があることを受け入れつつ、ただしそれがミソジニーやヘイトに行かないためのメンテナンスや技術が日常的に必要なんだと思います。
障害者のケアの仕事で面白かったのは、自分のセクシュアリティが揺らぐような経験がたびたびあったことです。同性介助を基本とするので、たとえば僕は自閉症のイケメンの男の子とよく手をつないで外出したりしていた。男同士で手をつないでいると変な目で見られて最初は恥ずかしかったんですが、だんだんそれが楽しくなっていって(笑)。男性たちって、そういう経験があまりないと思うんです。最近はクィアと障害学の交差を「クリップ」と呼ぶこともありますが、そういう部分的なクィア性やクリップ的な欲求が自分の中にもあるんだと。自閉症である彼と健常者である自分との接触関係の中に、自分にとっても未知の新たな欲望が出てくるという経験でした。
あるいは、知的にも身体的にも重度の障害がある少年のショートステイの仕事を時々していました。宿泊用の建物は、夜中に一人で仕事をしていると結構怖い場所だった。変な音がするとか、ちょっと幽霊的な恐怖があった。でもその子といると、夜中でも全然恐くない。たとえば幽霊なり強盗なりが来て、トラブルがあったとしても、たぶんその子は何も助けてはくれないでしょう。でも、その子が何ができるできないじゃなく、その子が「存在していること」それ自体が決定的に重要だった。誰でもそういう経験があるとは思うんですけれど、あらためて考えてみるとちょっと不思議だった。今でもそういうことをよく思い出します。
趙:とても面白い話ですね。存在するだけで安心する、不安が消えるということですかね。
杉田:そこには能力主義や健常者主義とは別の力が働いていると思うんです。無能力とか無力さとか考えるうえで、そういう育児やケアの経験を通して、自分自身に対する固定的な見方をちょっとずつ変えられていった。本当はこんなに自己嫌悪しなくてもいいんじゃないかと。社会的に何ものでもない自分が虚しいとか、そういうふうに考えなくてもいい。社会的に弱いとされる存在たちとの関係が、そういう新たな価値観を与えてくれた。その点でも、ケアしているつもりがケアされていた、という反転の感覚があるわけです。引きこもり的な実存が感じる社会的な無意味さと自己嫌悪はつながっていて、障害者介助のなかでそれを変えられた部分があって……ただ、そういう自己否定は今もやっぱり根深く残っていて、完全に消えたわけではないんですけれども。(下編に続く)
[筆者紹介] 趙慶喜(ちょう・きょんひ)。日本生まれ。聖公会大学東アジア研究所副教授。日本と朝鮮半島の関係を中心に植民地主義、移動、マイノリティ、ジェンダー問題を研究し教える。主な共著に『主権の野蛮:密航・収容所・在日朝鮮人』(ハンウル、2017)、『「私」を証明する:東アジアにおける国籍・旅券・登録』(ハンウル、2017)、『〈戦後〉の誕生:戦後日本と「朝鮮」の境界』(新泉社、2017)、『残余の声を聴く:沖縄・韓国・パレスチナ』(明石書店、2021)などがある。